雑記

Q1.「普通」って何でしょうか〈下〉

カントさんの世界観から見る「普通」の不確かさ

というわけで、前回の記事の後編になります。

前回は普遍論争から「普通」について自分なりに考え、その中で自身の経験から唯名論的な「普通」にしっくり来ている自分に気付きました。

 

Q1.「普通」って何でしょうか〈上〉「普通」って何だろう ごきげんよう、ワトソンです。 「普通はそんな考え方しないよね」 「普通は大学の講義なんてサボるよね」...

 

今回はそこから派生して、カントさんの世界の認識の仕方に考えが及びます。

というのも、実念論と唯名論の対立である普遍論争に事実上の終止符を打ったのが、カントさんと言われており、私の疑問の答えがそこにあるのではないかと考えたためです。

ア・プリオリ

いきなり意味不明なカタカナが出てきましたね。カントさんの世界観を考えていく上で、このア・プリオリは、非常に重要な概念となります。

ア・プリオリとは

・人間に先天的に備わっている認識の枠組みのこと。

・人間が様々な対象を認識するときに必ず働くとされており、ある対象を認識するには、次のような段階を踏む必要がある。

感覚器官が知覚⇒感性の形式悟性のカテゴリー⇒理性

感性?悟性?理性?何だか雲行きが怪しくなってまいりました。普遍論争に続き、厳密には異なるかもしれませんが、私はこのように理解しています。

対象を今回は「生卵」に置き換えて説明すると、まず感性の形式の段階においてカントさんは、生卵を時間的・空間的に捉えるフィルターを通して見ることで初めて、感覚器官から得た様々な生卵の情報を知ることができると言います。

難しいように聞こえるかもしれませんが、次のことを考えてみてください。

過去・現在・未来どの時間上にも存在せず、また地球上どの空間にも存在しない生卵を見たり、触ったりすることはできますか。もちろん、できませんよね。それは私たちにとって、存在しないと同義なのですから。

つまり、カントさんはこの時間・空間という概念が存在しないと、そもそも人間は生卵を認識することができないと言っているわけです。このことから、私たちは生卵を認識するには、生卵を時間的・空間的に捉える必要が出てくるというわけです。

またカントさんは、時間・空間という概念は人間がもともと持っている枠組に過ぎず、世界そのものには存在しないと言います。そのため、この時間・空間という概念が、生卵を認識するためのフィルターのような役割をしていると言うのです。

ここら辺のことは、後の節でも詳しくお話しします。

 

それでは次に悟性のカテゴリーの話に移ります。この段階では、感覚器官で得た感覚情報を人間がもともと持っている12の考え方のルールに基づいて分析し、それらを意味のある情報にしていきます

たとえば感覚の形式の段階では、生卵を見たり触ったりしても、それはあくまで意味のある情報のもととなる感覚情報を得たに過ぎないので、白い・楕円形・触ったら割れやすいといった具体的で意味のある情報に変換できていません。

そこで悟性のカテゴリーの段階で、見たり触ったりして得た感覚情報を、人間が持つ12の決まった思考パターンで分析し、考え抜くことで、白い・楕円形・触ったら割れやすいといった意味のある情報に感覚情報を変換することができるのです。

また12の考え方のルールについては、今回詳しくは語りませんが、結果を見たときにその原因を分析する因果性という考え方は、人間がもともと生まれ持って備えている12の考え方のうちの1つの例として挙げられています。

 

そして最後に、理性の段階です。悟性のカテゴリーの段階で得た意味のある情報をまとめあげて、それらを1つの考え方に統一します。この段階でようやく、対象を現象として認識することができます。

たとえば先ほど得た白い・楕円形・触ったら割れやすいといった意味のある情報、これらの情報をまとめ上げて初めて、今自分が見たり触ったりしたこの物体は、生卵であると認識するに至るのです。

認識の3段階

感性の形式とは、感覚器官(目、鼻、口、耳、手など)によって得た様々な感覚情報を、時間的・空間的に捉えるフィルターに通すことで、顕在化しつつ収集していく段階。

悟性のカテゴリーとは、感性の形式の段階で顕在化させて収集した多くの感覚情報を、人間がもともと持っている考え方のルールに基づいて分析し、意味をもつ情報にしていく段階。12のカテゴリーがあります。

理性とは、悟性のカテゴリーの段階で作られた多くの意味をもつ情報を、論理的に推論することを通してまとめ上げ、1つの考え方に統一していく段階。

これら3つの段階を経て、ようやく現象という形で対象を認識することができるようになります。

 

物自体

ここまで、カントさんが考えた、対象を認識するまでの過程についてお話してきましたが、ここである言葉に引っかかった方も、いらっしゃるかもしれません。

ある対象を現象という形では認識することができる。

では現象という形以外で、対象自体を認識することはできないのでしょうか。

結論から言うと、カントさん曰く、対象自体を認識することはできません。

どういうことかというと、カントさんは人間自身が見ている世界は、世界そのものではないと言うのです。

もっと噛み砕くために、また生卵を例に取り上げます。

カントさんの考え方だと、私たちは3つの段階を経て、生卵を認識しています。

つまりイメージとしては、生卵自体から放たれた情報を認識する過程、時間・空間フィルターを通ったり、12のカテゴリーで分析されたりと、その放たれた情報が、ある程度人間の都合で変換されているのではないかということです。

この変換されまくった情報は、変換される前の情報、つまり生卵そのものとはズレがあるのではないかというのが、カントさんの考え方であり、人間が見ている生卵は、生卵そのものではないという考え方に繋がるというわけです。

この人間が見ている生卵のことをカントさんは現象という言葉で表現し、人間が決して認識できない生卵そのもののことを物自体という言葉で表現しました。

カントさんはこのことについてよく、人間は色眼鏡をつけていると例えて説明しています。

たとえば、緑色の色眼鏡(これがア・プリオリに相当)を常にかけている人間が、本来は白色の生卵を見たとしても、その色は薄緑色に見えてしまいます。

つまり、生卵=白色という前提が両者に成立していると、私たちにとっての薄緑色が、緑色の色眼鏡をかけた人間には白色として認識されてしまうのです。

このように人間は、ア・プリオリという名の色眼鏡をかけているようなものであるとカントさんは表現し、それゆえ世界そのものを認識することは基本的に不可能であるとしているのです。

そしてこの考え方は、こうも言い換えることができると、私は考えています。

認識できない以上、物自体はこの世界に存在しない。むしろ、先天的に備わっている認識の枠組(ア・プリオリ)を通じて、私たちが物自体(正確には現象)を構築している」と。

A.「普通」とは相対的なもの

本題を忘れかけていましたw

これらの考え方を今回は無理やり「普通」という概念に落とし込んでみました。

落とし込んでみると、先天的であれ、後天的であれ、それぞれの色眼鏡をつけている私たちに普遍的な普通など存在せず、色眼鏡を通じて私たちが各々で普通を構築しているに過ぎないということになります。つまり、

誰かにとっての普通は、誰かにとっての普通ではない」ということです。

普遍論争、カントさんの認識論から、私は「普通」とは相対的なものであるという解答に落ち着きました。

しかし、私も自分の経験から、都合のいい、居心地のいい考え方を無意識下でピックアップしているにすぎません。

実際問題カントさん、道徳法則については例外的に普遍性を認めています。

私が導き出したこの解答も、普遍的な解答では決してないのです。

新たな経験をこれから重ねていくうちに、この解答も変容するかもしれません。

あくまで、現時点における解答ということは、どうぞ留意していただきたいと、切に考えています。

またこのテーマを考えるうえで、本来であればプラトンさんとアリストテレスさん、普遍論争に端を発する大陸合理論とイギリス経験論などの対立についても述べたかったのですが、今回は省略しています。ここら辺の詳細も記事にできたらいいなと考えています。

もちろん、その流れのなかで改めて、カントさん特集みたいなのもやれたらやりたいと思ってます(書きたいこと多いなw)。

ここまで私の駄弁にお付き合いくださり、本当にありがとうございました。

それでは、ごきげんよう。

追記:参考文献

竹田青嗣著『超解読! はじめてのカント「純粋理性批判」』講談社 2011年

イマヌエル・カント著、熊野純彦訳『純粋理性批判』作品社 2012年

イマヌエル・カント著、熊野純彦訳『実践理性批判―倫理の形而上学の基礎づけ』作品社 2013年

イマヌエル・カント著、熊野純彦訳『判断力批判』作品社 2015年

※お問い合わせいただきましたので、追記しました!