雑記

Q1.「普通」って何でしょうか〈上〉

「普通」って何だろう

ごきげんよう、ワトソンです。

普通はそんな考え方しないよね」

普通は大学の講義なんてサボるよね」

普通は結婚して、親に孫の顔を見せるよね」

これは今年に入ってから、私に浴びせられてきた言葉の数々です。

普通」であることが、この世界の普遍的な正義であり、「普通」から外れれば、普遍的に悪である。そう認識している人間たちは、この世界に一定数存在しています。

私自身、実際にそんな彼らと様々な場面で、何度も交流を試みてきましたが、対話を重ねれば重ねるほど、この「普通」という言葉への違和感が強くなっていきました。

振り返ってみると幼少期のころから、この違和感は心のどこかで感じていたことではありました。しかし、あまり深く考える機会を今まで設けてきませんでした。何となく向き合うのが面倒で、避けてきた節は自分でもあります。

ただ、この違和感という強烈な後押しのおかげなのか、この問いに対して長年抱えてきた煩わしさを、ここ最近は探究心が上回り始めました。今の私なら、この難儀な命題とも、向き合うことができるかもしれない。

そこで今回、そんな「普通」と向き合い、いろいろと考えながら、私の中にあるこの違和感の正体を突き止めていきたいと思っています。

普通」とは、いったい何なのでしょうか。

これはあくまで、私なりの主観に基づいた結論です。

「普通」の辞書的意味

試しに、「普通という単語を辞書で引いてみると、次の意味であることが分かります。

① いつでもどこにでもあって、めずらしくない・こと(さま)。 「日本に-の鳥」
② ほかとくらべて特に変わらない・こと(さま)。 「ごく-の家庭に育つ」 「 -ならもう卒業している」
③ 特別ではなく、一般的である・こと(さま)。 「 -高校」

松村明編集 『大辞林 第三版』 出版社: 三省堂 2006年

つまり「ありふれたもの、多数派に属するもの、主流派に属するものの総称」が「普通」ということみたいです。当然のことではありますが、多くの人は、この辞書的な意味で「普通」という言葉を日常で用いているように思えます。

しかし、やはり何か釈然としませんでした。違和感は尚も残ります。そんな時、つい先日のことですが、2人の友人(便宜上ここからは友人Aと友人Bとする)と飲みに行く機会があり、そこで違和感の正体に近づきます。

2人の友人の「普通」

その日、私たちは「目玉焼き、調味料何かける問題」について議論をしていました。

友人Aは醤油、友人Bはケチャップ、私は塩コショウということで、議論自体は大いに盛り上がりましたが、この他愛のない会話の中で、今回の話にもつながる興味深い発言がありました。

友人A
友人A
普通は醤油でしょ。全員かけているものだと思ってた
友人B
友人B
我が家では普通だけど、ケチャップってあまり聞かないよね笑

私はこの発言を聞いたとき、友人Aが用いた「普通」には強い違和感を覚えた一方で、友人Bが用いた「普通」にはなぜかしっくり来てしまったのです。

その時、これは普遍論争の延長線上の問いなのではないかと、私は気付かされました。

普遍論争

いやお前、普遍論争ってなんだよって話ですよね。普遍論争の説明の前に、まず普遍という言葉を定義したいと思います。辞書で引いてみると、次のようになります。

① 広く行き渡ること。 「火山の到る処に-するを/日本風景論 重昂」
② すべてのものにあてはまること。すべてのものに共通していること。 ⇔ 特殊 「 -の原理」
③ 〘哲・論〙 〔universal〕
㋐ 宇宙や存在の全体にかかわっていること。
㋑ 複数の個物について共通に述べられ得る事柄。普通名詞に対応する項辞ないし概念。

松村明編集 『大辞林 第三版』 出版社: 三省堂 2006年

これを踏まえて、本記事では「普遍=対象となるすべてのものに当てはまる共通の本質」とさせていただきます。

その対象となるすべてのものに当てはまる共通の本質が、本当に存在するのか、はたまた存在しないのか、この論争を普遍論争と言います。

この場合の普遍論争とは、11世紀の中世ヨーロッパで盛り上がった、キリスト教の神学論争を指すことがほとんどです。この論争の元をたどると、プラトンさんとアリストテレスさんの対立構造にたどり着きますが、この辺の詳しいことは別の記事で改めて書かせていただきます。

実念論と唯名論

この普遍論争において対立している理論が2つあります。実念論唯名論です。

実念論

この世界では、普遍が先に存在しており、普遍があることで事物の存在は成立しているため、普遍は存在するという理論。

唯名論

この世界では、事物が先に存在しており、普遍という括りは事物を分かりやすく整理するために、人間の都合で作られた単なる言葉に過ぎないため、普遍は存在しないとする理論。

意味不明ですよね、分かります。例として人間を当てはめてみると、少し分かりやすいかもしれません。

 

まずは実念論の考え方だと、人間はこうなります。

初めに、誰もが共通して当てはまる人間の本質となるものが世界に存在していて、個人という存在は、その本質があって初めて成立します。

ゆえに、友人A、友人B、私はもちろん、世界に存在する人間誰しもに、ある共通の本質が備わっていて、個人は人間という括りで究極的には全人類とつながっているとも言えるのです。

 

一方で唯名論の考え方だと、人間はこうなります。

そもそも人間という言葉は、人間自身が他の動物などと存在を分けて自分たちを認識できるように、便宜上作った都合のいい概念に過ぎません。

ゆえに、友人A、友人B、私という個人は世界に存在していますが、世界に存在する人間誰しもに備わっているような共通の本質は存在していないのです。

「普通」を当てはめてみると・・・

本題に戻ります。ここで先ほどからの「普通」という概念を実念論と唯名論に当てはめてみると、自分の中で抱えていた違和感の正体に気づくことができました。

つまり、私が違和感に感じていた友人Aの普通は「実念論的な普通」であり、違和感を感じなかった友人Bの普通は「唯名論的な普通」だったのです。

こう文章を見てみると、私はどうやら唯名論的な立場をとっているようですね。

 

友人Aの発言を振り返ってみると、以下のようなものでした。

「普通は醤油でしょ。全員かけているものだと思ってた」

すなわちこの発言から、自らの考える普通は、世界にもともと存在している「普通の本質」と接続されており、自らの「普通」が世界の「普通であると、また普遍的であると信じて疑わなかったということが読み取れるのではないでしょうか。

 

一方で友人Bの発言を振り返ってみると、以下のようなものでした。

「我が家では普通だけど、ケチャップってあまり聞かないよね笑」

すなわちこの発言から、自らの考える普通は、あくまで自らを取り巻く環境や経験から導き出された「普通」であって、その「普通」が世界共通の「普通」であるとは、考えていないということが読み取れるのではないでしょうか。

実際に友人たちからも、発言の趣旨として、そういった認識で間違いないと確認はとっております。

醤油とケチャップ、私も含めれば塩コショウもですが、それぞれが各々の「普通」を現に持っていました。このことからも、そこに全世界に共通する普通というものは存在しないと私は考えているようです。

また仮に、普遍的な普通が存在すると突き詰めてみると、それは法律や政策という都合上、社会・国家が指し示している「普通」である可能性が考えられると思います。もしかしたら、社会・国家の「普通」を全世界に共通する普通の本質と錯覚しているに過ぎないのかもしれません。

 

というわけで、このあと話はカントさんの物自体、コペルニクス的転回という考え方につながっていきますが、長くなってしまったので今回はここら辺でお開きとします。ここまで長々とくだらない話にお付き合いいただき、ありがとうございます。〈下〉に続きます。

それではごきげんよう。

 

Q1.「普通」って何でしょうか〈下〉カントさんの世界観から見る「普通」の不確かさ というわけで、前回の記事の後編になります。 前回は普遍論争から「普通」について自分...

 

追記:参考文献

山内志朗著『普遍論争 近代の源流としての』平凡社 2008年

八木雄二著『天使はなぜ堕落するのか―中世哲学の興亡』春秋社 2009年

八木雄二著『神を哲学した中世―ヨーロッパ精神の源流』新潮社 2012年

トマス・アクィナス著・山田晶訳『神学大全(Ⅰ)(Ⅱ)』中央公論新社 2014年

※お問い合わせいただきましたので、追記しました!